渡米生活。(日記)

渡米生活。本家から切り離しました。あまり渡米生活に関係のないプログラムネタや音楽ネタなど。

ファーマーズマーケット

ホントはファーマーズマーケットの写真をとってきて、本家「渡米生活。」の方に上げようと思ったのだけど、カメラ忘れたのでこっちに。

本日の収穫。

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人参$3、キャベツ$1.5、ズッキーニ3本で$1、同じくビートも3つで$1。
全部朝取り、オーガニックでこのお値段は有り難い!
やっぱり季節の野菜を食べるに限ります。

でかいニンジン(日本では普通のサイズだけど)は、スーパーで売ってないこともないけど、あまりお目にかかりません。勿論、買ったのはこの葉っぱが目当てです。(ウサギ用)。
ウサギ達おおよろこび。こいつら、オーガニック野菜検出器だからね…

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ハナちゃんはおいしいもの食べると目ん玉とびでて余計怖い顔になっちゃうんだよねえ。(これでもなるべくギョロ目になっていないアングルを探した)

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うまい根っこを食うのはいつも女。雄はおそるおそる葉っぱから攻めてみる……(カワイソウ)

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勿論根っこのやりすぎはウサギに毒なので、根っこは人間がグラッセにしていただきました。
砂糖なくても十分甘いけど、小さじ1杯だけオーガニックの砂糖を足してみた。

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固さどうかな〜なんてつまみ食いしていたらこんなに減ってしまった……
隣は、腹を空かせたウサギ(ハナちゃん)に食われたSocial Security Officeからのメール。
(まあ、もう用済みだからいいんだけどね…)
ホント山羊みたいなやっちゃ(顔もだが……)

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さて、勢いでビーツを3つも買ってしまったが、これどうしよう。(調理方法知らん)
なんかほかのお客さんに圧力鍋で煮ろとか言ってたから、普通にシチューにでもすればいいのだろうか。

レンタル楽譜の値段

どーしてもぶっちゃけたい心境に抗えなかったので、書いてやります。

吹奏楽の)レンタル楽譜が高い、という人。
気持ちはわかります。たしかに販売楽譜より高いです。

でも!!

高い、出版社&作曲家がレンタル楽譜でボロ儲けしている、という結論に飛びつく前に、頼むから簡単な小学校のかけ算をやってみてチョーダイ!

コンクールに出る人なら、ある曲がどのくらいの頻度で演奏されるか分かりますよね。
既に著作権切れの曲は除外。著作権が現存する現代作曲家の曲です。
100回も演奏されればヒット曲と言って良いのではないでしょうか。
地区予選から全部あわせて、300回も演奏されたら、「またこの曲!」ってレベルでしょう。

で、この100回、販売楽譜で演奏したとします。楽譜は2万円程度で計算します。

経費のうち、かなりの部分を占めるのは勿論印刷代です。吹奏楽の楽譜なんて、何千も印刷したって売れませんから、少部数発行になってどうしても印刷コストが高くなるのです。

で、出版社がJASRAC著作権使用料としておさめるのは、販売価格の10%×部数です。何年も在庫かかえて、宣伝広告も打って、ってやらなくちゃならないんだから、それ以上払ったら赤字になるでしょう。

JASRACは、その10%から20%分の手数料+消費税を差し引き、作曲家に分配します。

というわけで、作曲家に入る印税収入は(100部発行されたとして)、15万程度。(※実際にはこんな小ロットはコスト高過ぎて刷れないと思う)
しかも、これは、日本中の演奏団体が、絶対に違法コピーをしない、という前提のもとでの数字です。

どうですか?
数年に一度、書けるかどうかのヒット曲でも、作曲家の収入一曲、一年あたり15万ですよ(笑)。
サラリーマンの初任給一ヶ月分(手取)と同じ。
まあ、かなり荒っぽい計算ですが、そんなに実情と違わないと私は思います。


これが、レンタル楽譜になると、大分様相が変わります。
まず、コストが大幅にダウンします。
それから、現状単価設定が販売楽譜より高いので、その分作曲家や出版社への還元率が高くなります。
更に、中古品販売、違法コピーのリスクが激減します。
レンタル楽譜だけで現在生活できている作曲家がどのくらいいるか知りませんが、販売楽譜よりずっとマシなことは確かで、だからこそ最近レンタル楽譜会社が激増しているわけです。


……「販売楽譜に比べて高すぎる」。その通りかもしれません。
だけど、その販売楽譜が、どんなに厳しい商売であることか!
上の数字は、ちょっとJASRACのホームページを見て、吹奏楽業界の現状を知っていれば、簡単に計算できるようなものです。
それなのに、その計算もなく、ただ出版社や作曲家を「ボッタクリ」と責める論調を見ると、本当に悲しくなります。


芸術の本来の姿は、本当にお金がかかるものです。
だからこそ歴史的に、芸術が発展するためには、つねにパトロンが必要だったわけですが…。

勿論、自分の作品を広めるため、敢えて安価で自分の芸術を「販売」することはあります。
でも、それは、例は悪いですが、強いて言えば、スーパーの「本日の特価」とたいして違いはありません。
利益がほとんどない安売りの商品でお客さんの注意をひいて、他のものを一緒に買ってもらって利益を上げる、というやつです。
(現実には、そんな戦略が選べるほど恵まれた環境の作曲家はほとんどいなくて、もう出版社からオファーがあったら有り難くお願いする、って形だと思いますが)

スーパーに置いてある野菜すべて本日の特価にしたら、当然店は潰れるでしょう?
「レンタルは高すぎる、販売楽譜より高いのはおかしい」というのは、私には、「他の野菜は高すぎる、全部本日の特価と同じレベルにしろ」と言っているようにしか聞こえません。


しかし殆どの作曲家の皆様は、大変奥ゆかしくていらっしゃるから、そういう暴言は吐かない(笑)。
そして、本気で、もし可能なら楽譜を出版して欲しい、と思っておられます。
それはやはり、どんなに利益が薄くても、皆に演奏してもらいたいから、だと思うのです。
皆に自分の曲を演奏してもらえるなら、楽譜を出版して、収入の足りない部分はなんとか副業でやりくりすればよい、と思っている方も大変多いです(まあ、私の身近にいる作曲家もそのクチですが)。

それはそれで、私は大変立派だと思いますが、だからって、曲を利用する側が、「もっと安い楽譜もあるんだから、他の曲も全部その価格で提供して下さいよ」というのは、あまりにもあつかましいお願いじゃないのか?と思う訳です。

心を豊かにするもののために、その価値に見合ったお金を払うのは当然だと思うし、逆にその価格が見合わないと思うなら、お金を払わなければよい(実際、楽譜のミスが大変多かったり、この編曲にこの金額はちょっと……というようなレンタル楽譜もあるようですから)。
それは、借りる人が自分の心の中の価値観に照らし合わせて決めればよいことで、基本的に、他と見比べてディスカウントを要求するような類いのものではない、と思うのです。


中学、高校の小さなバンドにとって、30000円強のレンタル楽譜代金は、予算的に大変厳しい。それは、その通りだと思います。
しかし、実は30000円って、30人編成のバンドだったら一人1000円の負担なんですよ。
しかも、一回借りたら多分半年は使いますよね。
子供達に小遣いから払えと言うかどうかはともかく、大人の視点からみて、半年分の情操教育に千円費やすことがそんなに高いでしょうか?
今時の中高生、普通にケイタイやスマホで遊んでますが、その通信料の方がよっぽど高いんじゃないでしょうか(笑)。

勿論、ご家庭は千差万別、修学旅行の積立金を集めるのも苦労しているのに、クラブのために一律千円負担なんて無理!という声もあるかもしれません。それはそれで良いと思います。

しかし、だから、「レンタル楽譜は学校現場の状況をわかってない」と大人が決めつけてしまうと、それは、みすみす、目に見えない、形のない価値にも価格が存在するのだ、という非常に大切なことを子供達に教える機会を逃しているようなものです。

たとえば、一部でも学生達に資金捻出させるとか、だめなんでしょうかね?
コンクールまで、部員全員が毎週10円貯金でもいいし、あるいは、募金箱下げてPTAまわりをして、楽譜代寄附してもらうでもいい。

中学はともかく、高校生ともなれば、アメリカではボランティア活動の一つや二つ、やって当たり前の年齢です(でないといい大学に行けませんからね!)。募金のお願いキャンペーンなんか、お手のものです。
そのくらい、部員の中から声が上がってやったって、ちっともおかしくないと思います。
地元のイベントに演奏参加して、楽譜代募金お願いします! 私達をコンクールに行かせて下さい! と箱を置いておく、とかね(笑)。

先生が正しく著作権教育をして、形のない音楽でも、楽しむためには対価を支払うべきなんだ、ということが子供達にきちんと伝われば、きっと演奏したい曲の楽譜を手にいれる為に自分達が何をすれば良いか、議論が始まると思います。

そうやって自分達でためたお金で借りた(買った)楽譜で、コンクールの檜舞台に乗る。
子供達にとっては、きっといい記念になると思うんですが、どうでしょうか。



※追記

一部のオケ譜レンタルは、本当に目ん玉飛び出るほど高いです。
この場合は、上の議論はあてはまりませんね。中高生のお小遣いじゃ絶対無理(笑)。

著作者や楽譜会社はなにをぼったくってるんだ、と思うかもしれませんが、作曲者の著作権が生きている楽曲に関していえば、もしかしたら別に理由があるかもしれません。
たとえば、アマオケには演奏してほしくない、とか(笑)。

商売のことだけ考えれば、何十万もの単価をつけるより多少単価を下げても数さばいた方が収入は上がります。それなのにわざと高い値段をつける理由のひとつには、演奏レベルのコントロールが考えられます。
プロオケレベルのオケでないと、自分の曲をまともに表現してもらえず、結果として、自分の作品が誤解される、と思ったら、ぶっちゃけ単価を滅茶苦茶高くすればいいのです。
そうすれば、多分よほど資金潤沢な(つまり演奏でそこそこの収入が得られるレベルの)プロオケ以外は手を出さないでしょうから。

実際、自分の曲がどのように演奏されるかは、作曲者にとって死活問題です。過去の歴史をひもといても、今日名曲と言われる曲が、初演時にまずい演奏をされたために酷評され、何十年もお蔵入り、なんてエピソードが山ほど転がっています。
だから、お金にはうるさくなくても、自分の作品が表現されたときの仕上がりは大変気にする、という作曲家は、結構多いのです。

もともと、レンタル楽譜が生まれたきっかけは、そういうものだったかもしれませんね。
作曲者が許可した団体にしか演奏させない、というのは、曲が生まれた瞬間に生じる著作者の権利です。
そう考えると、芸術の公表形態としては、むしろレンタルの方が自然なのかな、と思います。


一方、既に著作権が切れているのにレンタル譜が高い! という場合は、単に楽譜出版社のカタログ商売のしわ寄せを食っている、ということでしょう。
(カタログ商売というのは、一部の売れ筋、もしくは利益が高い商品から得た利益で、その他大多数の赤字商品を提供する販売形態。利益はとれないけど世の中に公表したい商品が沢山あるような分野、たとえば楽譜、CD、本なんかはこれにあてはまります)

著作権が切れているのだから、理屈をいえば、一度楽譜を借りて、それを自分でFinaleかなんかで浄書してしまえば、あとは完全に自分のものになります。
問題は、その手間をだれがやるか、です(笑)。
他にもっと安くで楽譜を提供する出版社がないのなら、多分そこまで手間をかけても収入が見合わない、ってことなんでしょう。

逆にいえば、「この曲結構演奏されてるのにレンタル高い!」という(著作権切れの)作曲家の作品をみつけたら、自分でPDF楽譜出版社を立ち上げてそこより安くで貸す、って手もあります。
これなら、最初の楽譜レンタルにウン十万払えば、あとは元手殆どタダで事業が出来ます。もとのレンタル料がバカ高いから、半額でレンタルしても結構いい収入になるんじゃないでしょうか。
おお、なんか濡れ手に粟って感じ!!!(笑)

……といっても、日本は版面権が保証されてないから、日本でやるとあっという間にネットでコピーをばらまかれて事業いきづまる、ってオチが多分つくと思いますけどね(笑)。

著作権が現存する楽曲の編曲(アレンジ)について

また一つ勉強したので、備忘録(笑)。

既に原曲著作権が切れている曲を編曲する場合は、その編曲に対して100%権利を主張できます。これは、まあ分かり易い話なのだけど、まだ原曲に著作権が残っている曲をアレンジしたい、と思ったらどうするか。

まず、誰でも思いつくことは、原曲の著作権者の許可がいる、ということです。これは、許可をとらないと「著作者人格権」という権利の侵害になるので、やらないと駄目

では、この編曲を、たとえばJASRACに「●●作曲、●●編曲」として届ける、というのはどうか?

答えは、「殆どの場合原曲作曲者に嫌がられるからやるな」だそうです。。

なんだか、著作権関係って、勉強すればするほど、ちゃんと届けなくちゃいけないんじゃないか、使用料も払わないと! みたいな脅迫観念に駆られてしまって、それで編曲したらそれも届けねばいかんのではないか、と思い込んでいたのですが……

著作権が現存する曲の編曲届けを出すということは、「編曲したから、その編曲分の著作権使用料の分け前を寄越せ」と原曲作曲者に言っているのに等しい、ということなんだとか。

考えてみたら、JASRAC初め著作権管理団体は使用料収入の徴収と分配をやる団体なんだから、そりゃそうだわな(苦笑)。

具体的な例を考えると……

この編曲された曲を使って演奏会をやり、CDを作ったとする。
演奏団体は、誰に対して著作権使用料を払うかというと、原曲作曲者に支払うことになります(実際に払うのはJASRAC等の団体ですが)。
ここで、もし、その編曲に対して、編曲届けが出されていると、JASRACは、原曲作曲者にいくはずの使用料の一部を編曲者にも分配します。つまり、原曲作曲者の収入は、その分目減りします。
(だから、普通は原曲作曲者に嫌がられるわけですね)

こういう事情で、通常は編曲の場合、編曲者が編曲の著作権を届けないかわりに、原曲作曲側がお金を払って編曲してもらう、というケースが一般的なんだそうです。

というわけで、著作権つきの曲の編曲に関しては、下手に届けないのが一番、ということのようです。

しかし、演奏する側は、払う相手が誰であろうと、ちゃんと届け出て使用料払わねばダメですよ!
演奏会の際は、著作権団体への連絡を忘れずに。


2013年8月追記:

この話、もしかしたら、編曲届けを出して(それがJASRACに認められて)しまうと、その編曲だろうがまったく関係のない編曲だろうが、全部著作権収入が編曲者にも分配されることになるのかも知れません。
詳しくは、こちらの記事参照。

楽譜のコピー問題

最近楽譜の著作権や版面権について色々調べる機会があったので、ちょっとばかし考えたことなど。

楽譜をコピーするのはダメですよ、というのは、趣味で音楽をやっていて、ある程度の年齢がいった人ならまあ一度は聞いたことのある話だと思います。
しかし、世の中にはそんなことをまったく気にしていない層がいることも事実です。

最近は「楽譜コピー問題協議会(CARS)等の啓蒙活動のお陰で、数十年前よりは随分マシになっていると期待していますが、たとえば大学オーケストラなんかは惨惨たるもののひとつです。昔の話ですが、ひとつの楽譜に3つくらいのオーケストラの蔵書印が押してあるコピー楽譜を見たことがあります。

大学生といったら一応大人の仲間入りはしていますが、まだまだ経済観念が希薄な年頃、そうやって売り物をコピーしちゃったら商売が成り立たない、会社が潰れる、というところまで、知識で知っていても実感として分からない人も多いですね。
「チケットノルマが高くなるから」という理由で借り物の楽譜をコピーし、選曲会議では著作権が現存している作曲家の曲は最初から取り上げない、というような意識では、趣味の活動を行うためには団員がもっとお金を払うべきだ、という結論にはなかなかなりにくい、というのが現状だと思います。
その点、まだ吹奏楽の団員の方が意識が高いかもしれません。
楽曲の著作権はほとんど現存しているし、楽譜をレンタルしても新しい曲をやりたい、という団体もそれなりの数がありますから。

では、どうすればそういう団体のコピーを止められるか?

楽譜のコピー問題を解決するには、演奏会場になるホール側で原譜を確認してもらい、原譜を所持していなかったら予約は受け付けない、というのが一番手っ取り早いと思う。

JASRACや出版社がやれることには限りがあります。演奏会の主催者に電話して「著作権使用料払ってますか?」というのはJASRACがやっていて、これは世界の基準から見てもかなり真面目に働いてくれている方です。しかし、流石のJASRACでも、全国津々浦々の演奏会にまで出向いて、コピー楽譜を使っていないか確認しろ、というのは無理があります。
そもそも、著作権が切れた作曲家についてはJASRACは管理してませんから、クラシックの楽譜の場合は、版面権(という権利は実は現状日本にはないのだけれど)を持つ出版社が頑張るしかない、ということになります。

(まあ、日本に版面権がないおかげで、実は著作権切れの楽譜の場合、日本では出版楽譜をコピーされてもそれを裁く法律がない、という話もあるんですが…。
ちなみに、海外出版の楽譜は版面権があることがありますから、日本でOKでもその出版社の国に入国した途端犯罪者ってことも有り得ますのでご注意を。
なお、版面権に関しては、あんなのは出版社が儲けるための口実で、パブリックドメインで万人に認められる自由が阻害されている、といった主張をする人もいますけど、常識で考えて売り物をタダでコピーして使って良い、と考える方が無茶だと私は思います。パブリックドメインなのは曲の内容なんだから、そこまで言うなら出版社の楽譜を見ながら自分でFinale入力でもして、そっちをコピるべき。)


だったら、JASRACや出版社は演奏会を行うホールに協力を頼めば良いのです。ホール側だって、人が足りない云々とゴネるところもあるかもしれないが、音楽専用ホールや自治体のホールなんかは、協力してくれるところもあると思う。

でも、多分、そんなこと、とうに当事者の方々は気づいてるよね(笑)。

……実は、この方法には、致命的な問題があるのです。
それは、ちゃんと楽譜を買って使っている団体でも、大抵本番に譜面台に載っているのはコピー譜だということです。

ホール側が取り締まるとなると、何がダメで何がOKなのかを明確にしなければなりません。原本はきれいなままとっておいて、コピーした楽譜に色々書き込みをして、本番はコピー譜を使う、というのは、著作権法に規定された私的使用に入るのか?

このへんまでくると、色々現行の著作権法の解釈が難しくなってきます。
著作権法第三十条によれば、「個人的に又は家庭内その他これに準ずる限られた範囲内」での使用なら私的使用と認められる、と書かれています。

で、「CARSのページを細かく見ると、オーケストラ等の団内で使用するのは、この「個人的に又は家庭内その他これに準ずる限られた範囲内」とは認められない、という解釈であることが見てとれます。
(だから、パート譜が足りない場合はコピーしちゃダメ、追加でパート譜を買い足せ、ということになるわけですね)

これを真面目にとると、やはり書き込みしたかったら原譜に直接書け、コピーはまかりならん、ということになり、ホール側もそれで取り締まらなくてはならなくなります。

さて、著作者や出版社は、本当にそこまでしてコピーを禁じたいのか?


近年、とくに吹奏楽で、販売楽譜ではなくてレンタル楽譜の分野が急成長しています。
で、このレンタル楽譜に関しては、個人練習用の楽譜コピーを許可したり、パート譜が足りない場合にコピーして補充することを許可しているケースが増えてきているのです(演奏会後にコピーは破棄したり、原譜と一緒に送り返すことを条件にしているところもあります)。
ちなみに、何故レンタルなら割合に自由がきくか、というのはまた別の機会に書くとして。
実は、アメリカでは、販売楽譜でも、ライブラリアンが楽譜をコピーして団員に渡し、演奏会終了後に全部集めてその場でシュレッダーにかける、という形態が一般化しています。
もともとそのような下地があるので、レンタル楽譜も、最初から弦のみパート譜の複製を許可する、等の条件がついていることもあります。

この傾向を見ると、著作者や出版社は、多分本音では、正規に楽譜を購入した人々にまで厳密にコピーを禁じたいわけではないのだと思うのです。
ただ、コピーした楽譜の扱いには気を付けて欲しい。お金を払っていない人の手に渡ることがないようにして欲しい、ということなんだと思う。

実は、「私的使用」を超えた範囲のコピーについて、著作権法では「禁止」とはされていません。
そのかわりに、「著作権者の許可を得る」となっています。
ですので、上記のような場合のコピーについてどうするかは、実は法律を変更しなくても、もっと柔軟なものにできる可能性があります。
おそらく、現在JASRACと楽譜出版社も、どうすればもう少し時代に即したルールに変えていけるかを模索していると思います。

たとえば、最近スコアのみ印刷物で、パート譜はpdfファイルでCDに焼いてスコアと一緒に販売する、という形態の楽譜がありますが、この方法ですと、弦パート譜が足りない! という心配をしなくてよくなります。
(CDそのものをコピーしたり、ディスクにバックアップしたら「複製」になって、著作権法に書かれた制限を受けますので、ご注意。)
一方、ヤマハぷりんと楽譜などのデジタル楽譜販売では、人数分のパート譜を買え、という規則になっていることが多いです。これは、単価が1人あたりに設定されているからであると思われます。
紙の楽譜しかなかった時代には出来なかった実験を、今色々やっている、といったところでしょうか。

というわけで、個人的には、いつか楽譜の正規購入者は怯えずにコピー譜を使えるようになり(勿論他者への譲渡はダメ)、不正コピー楽譜撲滅のためホールの協力を得られるようになったらいいんじゃないかなーと思うのですが、どうでしょうか(笑)。

カテゴリー一覧ページで現在のカテゴリーの情報(スラッグ、IDなど)を取得する方法

カテゴリー表示ページで、カテゴリーごとにサイドバーを変えたい、とかいう際に、is_category関数で分岐したりしますが、これがうまく動かないことがあります。
たとえば、カテゴリーが入れ子になっている場合で、子カテゴリの記事一覧を表示すると、is_category関数には親カテゴリのスラッグしか指定していないため、if文でうまく分岐できずにデフォルトのサイドバーが使われてしまう、といった感じです。
まあ、表示される可能性があるカテゴリのスラッグを、片っ端からis_category関数の引数に登録すればよい話ですが、子カテゴリが新しく増える度にcategory.phpを書き換えるのは管理上あまり好ましくないですね。

それで、自前で関数を書き、カテゴリー全階層をサーチするようにしたのですが、何故かこれがうまく動かないケースがあり、ずっと対処療法で誤摩化していました。
で、よくよくマニュアルを見たら、自前関数の中で、こいつを使っていたのがまずかったらしい。

$cat=get_category_by_slug($catslag);

どうやら、カテゴリをとってくる系の関数は、ループの中でしかまともに動かないらしのですね。($postグローバル変数が書き変わると誤作動する)

それで、カテゴリー表示ページ(category.phpが表示するページ)で現在表示しているカテゴリーの情報を保存したオブジェクトをとってこようとgoogle様にお尋ねしたら、結構面倒くさいようなことが書いてある。

ちょっと挫折しかけましたが、いやまてよ、is_category関数はカテゴリー表示ページならどこでも使えるんだから、どっかに情報は保存されているはずだ! と思い、query.phpの中のis_category関数を眺めると、要はcategory.phpの中で、次のようにやれば現在のカテゴリの情報は何でもとってこられる模様。

<?php 

   // 現在のグローバルクエリを取得
   global $wp_query;

   // 直前のクエリーオブジェクトを取得
   $cat_obj = $wp_query->get_queried_object();

  // 欲しい情報を取得

   // 現在表示中のカテゴリーID
   $catid = $cat_obj->term_id

   // 現在表示中のカテゴリーのスラッグ
   $catslag = $cat_obj->slag

?>

これだと、Loopの中であろうがなかろうが、まともな情報をとってきてくれる模様です。
というのは、is_category関数はLoopの中で使用せよ、等の制限がないからで、つまり、$wp_queryグローバルオブジェクトは、少なくともカテゴリー一覧ページ表示中には書き変わらんのだろう、と期待したのですが…
本当のところはどうなのか分かりません(笑)。
(まあ、うちではまともに動いているので、これで良いのだと思う)
ちなみに、カテゴリーオブジェクトからこのほかにどんな情報を引き出せるかは、以下のページの戻り値の項目をご覧下さい。

WordPress 私的マニュアル
http://elearn.jp/wpman/function/get_category.html


というわけで、冒頭の問題の対策として、こんなコードを書いてみました。

<?php 


   // 現在のグローバルクエリを取得
   global $wp_query;

   // 直前のクエリーオブジェクトを取得
   $cat_obj = $wp_query->get_queried_object();

   // 以下は自前の関数、カテゴリが入れ子になっている場合に
   // 一番親のカテゴリオブジェクトをとってくる。
   $topmost_cat = hmo_get_category_ancestor($cat_obj);

   //デバッグしたい方は以下のコメントアウトを外して下さい。
   //print "current category is ".$cat_obj->slug . "<br>";
   //print "current topmost category is ".$topmost_cat->slug . "<br>";

   // あとは、一番上のカテゴリのスラッグやIDで分岐
   if ($topmost_cat->slug == 'works') { 
      get_sidebar('works');                        
                                                   
   } elseif ($topmost_cat->slug == 'archives') {   
      get_sidebar('archives');  
                   
   } else {
      get_sidebar();
   }
...

?>

hmo_get_category_ancesterは、カテゴリが入れ子構造になっているときに、一番親のカテゴリをとってくる関数です。これをやらないと、$wp_queryに子カテゴリの情報が入ってる場合に、if文でスルーしてしまうので。
こんな感じで、function.phpに書いておきます。

/**
 * get ancester of current category
 *
 * @since HMO 0.1:
 */
if ( ! function_exists( 'hmo_get_category_ancestor' ) ) :
function hmo_get_category_ancestor($cat) {
   while ($cat->parent != 0) {
      $cat = get_category($cat->parent);
   }
   return $cat;
}
endif;

これで、一番上のカテゴリごとに違うサイドバーを設定できました。

かけ算の順序問題

先日茂木健一郎氏のツィートで知ったwiki page。

かけ算の順序問題

小学校のかけ算の文章題を解く際に、たとえば「ウサギが3匹います、耳は全部でいくつですか」みたいな問題で、式を2x3と書くか、3x2と書くか、という話。

勿論、数学的にはどっちも同じ(スカラー同士のかけ算は可換)。だが、小学校によっては、「3x2は耳3本のウサギが2匹になってしまい、意味をなさないのでダメ」というところがあるらしい。

私は勿論、これでバツをつけるのは鬼だと思うが(正しいことにバツをつけられた子供の心の傷を考えてみるべきです!)問題はこのwikiの中で紹介されている事例です。

そもそも、順序を正しく教えるべき、という議論は、どうやったら子供達にかけ算のしくみを理解させることができるか、というモチベーションの上に生まれたものだと思うのだけれど、その「どうやって」のところで、合理化ばかり考えている。正しい順序推進派には教育大学の先生方が並んでますけど(苦笑)こんな合理化ばっかり考えてていいんですかね?

「教育学」という学問としては、そっちの方向に行きたい気持ちは分からんでもないけど、教育は合理化で割り切ってはいかんものがある、と私なんぞは思うんですが。
かけ算を習って、分かったつもりになっていたけど、割り算で混乱した。
そこで、もう一度かけ算って何だったのかを考え直す。勉強する。
そうやって初めて分かる子、もっといえば、一見回り道に見えるその過程を辿らないと本当には知識が自分のものにはならない、って子、わりといるんじゃないかなあ。少なくとも私はそうだったし。

間違った理解に進まないように、周囲の雑草を刈り込まれて、「ここだけ見なさい」って教育は、確かに効率はいいし、子供達は混乱しなくて済む。
だけど、そういう理解って、結局自分で雑草を刈り込んで本質を見分ける試行錯誤をしてないから、脆い。ちょっと違った例題に打ち当たったら、すぐまた混乱しますよ。

子供だって千差万別。
理解の仕方も、感受性も違う。
だから、「この方法がいい」とクラスで統一することなんて出来ないはずなんです。
そうはいっても、先生は一斉に数十人の生徒を教えなければならないから、どれか一つの方法になってしまうのは仕方がないし、それで良いと思う。
しかし、だからといって、他のやり方を否定してはいかんのですよ。
否定されたやり方でしかうまく飲み込めない子は、ひどく傷つくはずです。

合理化考えるより、子供を傷つけない、子供の可能性の芽を摘まないことを考える方が優先だと思うんですがね。
司法の原理と一緒。罪を犯していない者に有罪判決を下すというのは、絶対やってはいかんことです。
大袈裟と思うかもしれないが、バツを食らうというのが、有罪判決を食らうくらい衝撃的な子だっている。勿論、そういうセンシティブな傾向が良いと言ってるわけではないけど、そういう子が(自分では間違っていないと確信があるのに)バツを食らうと、大人への不信、教科への不信に繋がって、「算数なんて大嫌い!」になっちゃうかも知れない。
それは、かけ算や割り算の理解がどうの、という以前に大きな損失です。


実は、私自身は、「耳2つを持ったウサギが3匹」と考えないと簡単な計算すら出来ない子供でした。
「耳3つのウサギが2匹」はまったく違う問題だ、と思ってました。
だから、この手の文章題でバツをもらった事は一度もありません。
式は必ずマルをもらうけど、簡単な足し算やかけ算で間違って答えはバツ、というパターンがほとんど。
これは、文章題の意味を理解し、現実世界の問題として捉えなおさないと、計算という言語に置き換えることができない、という傾向です。
数学という科学に特化した言語を、国語力でカバーしながら解釈して問題を解くタイプです。

小学校では、この傾向はむしろ歓迎されます。
でも、その結果、何が起こるか?
計算力が磨かれないんですよ。
だって、視覚的に脳裏に見えちゃうんだから、数えれば済む。
逆に問題が複雑になって、視覚化できないと、簡単な計算でも間違う。

実は私は、あまりに計算力が弱くて、2年も公文式に通って、それでも計算力が上がらなかった、という経験があります(笑)。
公文式って、とにかく計算問題を山ほどやらせて、習うより慣れろ、の精神なのですが、、、
私は一問一問、どうしてこの計算がこの答えになるか、という理由を理解して答えを出そうとしていたので、めちゃくちゃ計算のスピードが遅かったのです。

3+8という問題があったら、まず頭の中でみかんを3つならべて、10になるためにはあと7つ、ということは8のうち7つを使うから、1の位に残るのは1個、だから答えは11!

といった具合(笑)。
これをいちいちやっていたら、そりゃ計算遅いでしょう…
公文式の狙いは、九九の計算みたいに、その基礎的な部分を「慣れ」で考える前に答えが出るようになるまで訓練することです。
でも、私は、文章題でいつも式の正しさを褒められるので、逆に算数というのはそういう覚えや慣れでやってはいけなくて、常に文章題のように実例に照らし合わせるべきなんだ、と思い込んでいたのです(笑)。
お陰で、2年間、真面目に、一桁どうしの繰り上がりの計算をミカンで数えていたのですよ! 慣れでミカンの前に答えが出て来そうになったら、わざわざ頭の中でミカンを並べ直したりしてね(笑)。
だから、毎日真面目にやっても、計算力はちっとも上がらなかった。

視覚化は、最初に理解させるには有効かもしれません。
しかし、一度理解したら、そういう視覚や国語力の助けを得ずに、直接数式を理解する訓練が必要です。
なんとなれば、算数(数学)は概念を表すための言語だからです。
言語は、世界を理解するための道具です。(まあ、数学者は世界そのものである、と言うかもしれないが(笑))。理解したい世界が複雑になっていくにつれ、言語を別の言語に翻訳してから理解、なんてことでは追いつかなくなってきます。

で、中には、その数学という言語に対する親和性がものすごく強い子供がいるのです。
そういう子供の中には、ウサギだのミカンだのには全く興味はなくて、算数の2x3だろうが3x2だろうが答えは6、というところに美しさを見いだしている子がいるかも知れない。
で、数学的には、それが正しいのです。スカラー同士のかけ算は前後入れ替えても全く差はないのだから、文章題の世界よりよほど抽象化が進んでいて、ある意味美しい世界なのです。
そういう子にとって、3x2にしたらバツを食らった、というのがどれほど面白くない体験であるか、察するにあまりあります。

そういう子の全てが、将来もっと複雑な数式を扱うようになっても数学を美しいと思うか、といったら、多分相当数が途中で挫折するでしょうが(笑)それでも、一部は数学の本当の美しさに目覚めるかもしれない。
かけ算の順序問題でバツをつけるような教育は、そういった将来数学者や理論物理学者になるかも知れないような子供の芽を摘むことになるかも知れません。

第一、子供だって、なにも順序を強制しなくたって、言えばちゃんと理解すると思うんですけどねえ。
「文章題をとくのに、いい方法がある。袋を持った子供がいて、子供一人の袋の中にはみかんが2つ、だからまず最初に2と書き、×印を書いて、そのあとに子供が何人かを書けば、間違いが少ないよ」と言えばいいじゃん。
小学校低学年の数学は国語教育でもある、っていうんなら、絵描かせてもいいし。その部分で子供が3つミカンもってたら、そこで×つけるのはOKってことで(これは国語の問題で、算数の問題じゃないけどね)。
そのかわり、数式で3x2と書いても、×にはしない。
わざわざ先生がそう言ってるのに、敢えてひっくり返して書こう、という子は、捻れ体癖が強くて、とにかく先生の言う事に反抗したいか、本質的に数学の世界では2x3と3x2には違いがない、ということに気づいている子なんだから、「よく気づいたね」と褒めてやって、「高校生になったら、ひっくり返したら答えが変わってしまうかけ算も出て来るよ。楽しみだね」とでも言っておけばいいじゃん。
そうすりゃ、よしんば本当は理解してないんだとしても、高校で行列演算を習うときに理解するし、捻れの子なら反抗を軽く受け流されて大人しくなるよ。
それまで、数学をキライにさせないでおくことの方が、よっぽど大事だ。

と、思うんだけどなあ。

ピアノの初見の練習その後

以前、本家ブログの方で、「マムシ指の害 ── 楽器を習うときに気をつけること」というタイトルで、延々とピアノを習うときに気をつけるべきだったこと、というエントリを書き、その後、こちらのブログで「ピアノの初見の練習」というエントリを書きました。

…で、びっくりしたのが、この二つの記事、意外に閲覧数があるのです。
そのくらい、マムシ指や初見で困ってる人、たくさんいるんだろうなあ…

というわけで、なんか書き散らかしてそのまま、というのも居心地悪いので、その後どうなったか、経過をご報告します。


1)この際、生ピアノへの拘りは捨てました!

これ、私にとっては、実は結構大事でした。
やっぱり、仕事やってて、生ピアノをそれなりに練習するなんてのは、相当恵まれた環境でないと無理。
夜9時以降は音が出しにくい、というだけで、もう殆どの練習の機会は削られたようなものです。

正直、どうしても電子ピアノは嫌でした。でも、そんなこといってたら、いつまでたっても初見の練習なんて出来やしない。今どうしてもやりたいのは、ショパンやらベートーヴェンやらがバラバラひけるようになりたい、じゃなくて、人並みに楽譜を見ながら弾きたい、それが一番なんです。

で、初見の練習は、実は頭の訓練でもあると分かったから、まずはそこを鍛えることに集中して、指を鍛えるのはこの際後回しでもいい、と思い切って、KAWAIのCA95を買いました。痛い出費だったけど、ここが我慢できるギリギリの線。

で、買ってみて、いくつか発見がありました。
色々な人が言ってますが、このクラスの電子ピアノなら、状態の悪いアップライトピアノより良い面もあります。

それは、音色がタッチによって変わりやすいこと。
実はこれが電子ピアノの悪い面でもあって、簡単に変わりすぎるので、いざ生ピアノに切り替えたときに全然音色の変化がつかない、タッチが雑になっている、という話もききます。

でも、安くて状態の悪い中古のアップライトピアノでは、どんなに頑張っても音色のバラエティが乏しいのも事実。
そうすると、段々諦めちゃうんですよ。音色を変える努力を。
テンポの遅いメロディラインくらい一音ずつ少しずつ音色を変えて…とか頑張る気にならないし、そういう音楽をやろう、という想像力も萎んでいってしまう。
今電子ピアノでやっていることが、生ピアノに切り替えたとたんに出来なくなるかも知れない。でも、やりたいことが分かっていれば、努力は出来る。
しかし、そのやりたいことが思いつかないような楽器で練習していたら、生ピアノに切り替えたってやっぱり何もできないでしょう。

以前はこんなこと考えなかったんですが、ビオラを素人ながら少しやって、安い学校の貸し出し楽器から自前の楽器に変えたときに、「こんなことも、あんなこともできる」と夢中になった経験のお陰で、ある程度反応のよい楽器を使わないと想像力も育たない、というのが実感で分かるようになりました。
まあ、私がいままで使っていたアップライトの生ピアノは、なにしろ100ドルで譲ってもらったシロモノですから、音色の変化なんてまるでなかったので、それに比べたら、って話ですけどね。

もう一つ、私にとって良かったことは、電子ピアノは力が要らないこと。
昔教わった卵型に指を立てるタッチから、もっと平べったい指の形に変更するのに、殆ど抵抗がなかったということです。
平べったい形でも、きちんと腕の力を抜いて指先にうまく腕の重さを乗せて弾くときと、そうでない時の音の差は出ます。
実家のグランドピアノだと、鍵盤が重過ぎて、今の私の指の力ではどっちで弾いてもあまり音色の差を出せないのです。
そうすると、ついつい、簡単にクリアな音が出せる昔の指の形に戻っちゃう。
でも電子ピアノだとわりと簡単に差が出るので、今のタッチがまずかった、というのを音で判断できるし、力も要らないから指を立てなくて済む。昔生ピアノで練習していた頃より、どうやったら腕の力をうまく抜けるかの試行錯誤が、やりやすくなったと感じています。
また、力がいらないので、今のところ、マムシ指になって親指の付け根が痛い、ということもありません。

音楽をこれから始める子供に電子ピアノを勧められるかどうかといったら、そこはどうかな、という気はしますけど(子供はそんな夜遅くに練習しないし)、私みたいな大人になってからまたピアノやろうかな、って人には電子ピアノも案外いいのかもしれない、と思いました。
そのうち本気で再開したくなったら、その時に買い替えることになるかもしれませんが。


2)バーナムの初見、依然継続中。

以前のエントリでも紹介した、以下のホームページに書いてあった方法です。

ピアノが上手になる、超簡単ヒント集

会議があったり忙しかったりで、かなり進みは遅いですが、それこそ(電子ピアノのお陰で)夜中でも弾けるので、中断しながらもなんとか続いています。

で、何故バーナムなのか、段々わかってきた。
バーナムって、譜面簡単そうなのに、滅茶苦茶音域が広い!
だから、加線だらけの楽譜や、和音がガンガン飛ぶような楽譜への恐怖心を克服するには丁度いいんです(まだ克服できてないけどね)。

残念ながら、十代の頃のようには、思ったところに手がいかない、手の形もすぐに和音の形にならない、という問題があって、私は結構ミスタッチします。でも、昔みたいにムキになって弾けるようになるまで同じところを繰り返しては練習しない。
機械的に手に覚えさせたって結局時間の無駄、って自分で証明しちゃいましたからね。

この年になってまだ改善する見込みがあるとしたら、それは脳味噌の処理能力です。処理する速度を上げることと、マルチタスクに慣れさせること。脳味噌だけは、若い頃の発達速度にはかなわないものの、鍛えれば一生回路を育てることが出来る。
同じ音の連続で間違わない、上段と下段の楽譜を一緒に見る(一点注視しない)、間違えたら、それを覚えておいて次に同じミスをしないようにする、、、となると、同じ課題を出来るまで繰り返してしまっては意味がないのです。手が覚えちゃうから、脳の訓練にならない。

で、成果はどうかというと、確実に初見の速度と手の反応速度が上がりました。
一応ベートーヴェンソナタまでやっておきながら、昔はブルグミュラーすら初見ではまったく弾けなかったのです。
それが出来るようになっただけでも、大進歩です。
…というか、それ以前に、昔は如何に自分が頭使わずに弾いていたか、っていう情けない話なんですが(大汗)


3)今更なんだけど、和声コード覚えようかな、と。

なんでこんなことを考え出したのか、というと……

和音のコードがわかれば、和音の進行がある程度絞れる。そうすると、脳味噌の処理で多少楽が出来る。

…というのは、散々身近な音楽家の例で見ているので、これが出来れば多分かなり楽になるはず、というのが一点。

もうひとつは、今更無理かもしれないが、ナッチャッテでいいから絶対音感身につけられないかな、という野望です(笑)。

実は、私は、単音なら音当てが出来ます。後ろ向いて、誰かに鍵盤おしてもらって、何の音か当てる、ってやつ。これなら100%間違わない。
ところが、これが曲になっちゃった途端、すっかり分からなくなってしまうのです。

よく移動ド、とか固定ド、とかいいますが、移動ドならまだいい。何故か、変ホ長調ヘ長調に聞こえちゃったりとか、ホ短調ト短調に聞こえちゃったりとか、もう滅茶苦茶なのです。

なんでメロディになったり、和音がついたりした途端に分からなくなるのかは自分でも分からないが、それでも最近気がつきました。
どうやら、自分は、その調がもつ色みたいなものは、分かる調があるらしい。全部じゃないんですが、ハ短調とかかなり分かりやすいものもある。

実は、管弦楽曲の場合、それは別に珍しいことでも何でもなくて、作曲家はその調の色味を考慮して調性を決めています。これは、管楽器も弦楽器も、調によって鳴り方も演奏のしやすさも違うから、物理的にそうなってしまう、という面があります。
(以前、身近な作曲家にフォーレの楽譜を見せて、なんでこの楽譜は♭6つもついてるんだ、とぼやいたら、「そんなもの、思いっきり弾いてほしくないからに決まってるだろ」と切り返された……作曲家の本心を見た瞬間だった。。)

しかし、それだけではない、という気もする。やっぱり、音の高さによる違いが、高さという面でははっきり分からなくても、調から感じる印象の違いとしては捉えられていることがあるんじゃないかな、と。

ピアノの場合、調によって鳴り易さが違うかどうかちょっとよくわからないのだけど、なんとなく、やっぱり調によって色が違う、という気がします。
というわけで、音の高さで何ヘルツ、とかいうのは、今更やっても絶望的なんですが、調くらいは当てられるようにならないかな、と思ったのがきっかけでした。(だからナンチャッテなんだけどね)
調が当たれば、ピアノのどこ弾けばいいか分かるから、何調、と感じた瞬間にその場所に手がいく練習をすればいいので、そこまで分かればヘルツがわかる必要は(私には)ない、というわけで。

実のところ、多分和声に関しては、真面目に和声の勉強するのが一番手っ取り早いんだろうな、とは思います……。しかし、流石にそこまでやる時間はないからなあ。ハマると、パズルみたいで面白いんですけどね。


…というわけで、進みは遅いが、一応効果はあるみたいです、初見の練習。
当面の目標は、バッハのインベンションを初見で弾けるようになることかなー。