渡米生活。(日記)

渡米生活。本家から切り離しました。あまり渡米生活に関係のないプログラムネタや音楽ネタなど。

かけ算の順序問題

先日茂木健一郎氏のツィートで知ったwiki page。

かけ算の順序問題

小学校のかけ算の文章題を解く際に、たとえば「ウサギが3匹います、耳は全部でいくつですか」みたいな問題で、式を2x3と書くか、3x2と書くか、という話。

勿論、数学的にはどっちも同じ(スカラー同士のかけ算は可換)。だが、小学校によっては、「3x2は耳3本のウサギが2匹になってしまい、意味をなさないのでダメ」というところがあるらしい。

私は勿論、これでバツをつけるのは鬼だと思うが(正しいことにバツをつけられた子供の心の傷を考えてみるべきです!)問題はこのwikiの中で紹介されている事例です。

そもそも、順序を正しく教えるべき、という議論は、どうやったら子供達にかけ算のしくみを理解させることができるか、というモチベーションの上に生まれたものだと思うのだけれど、その「どうやって」のところで、合理化ばかり考えている。正しい順序推進派には教育大学の先生方が並んでますけど(苦笑)こんな合理化ばっかり考えてていいんですかね?

「教育学」という学問としては、そっちの方向に行きたい気持ちは分からんでもないけど、教育は合理化で割り切ってはいかんものがある、と私なんぞは思うんですが。
かけ算を習って、分かったつもりになっていたけど、割り算で混乱した。
そこで、もう一度かけ算って何だったのかを考え直す。勉強する。
そうやって初めて分かる子、もっといえば、一見回り道に見えるその過程を辿らないと本当には知識が自分のものにはならない、って子、わりといるんじゃないかなあ。少なくとも私はそうだったし。

間違った理解に進まないように、周囲の雑草を刈り込まれて、「ここだけ見なさい」って教育は、確かに効率はいいし、子供達は混乱しなくて済む。
だけど、そういう理解って、結局自分で雑草を刈り込んで本質を見分ける試行錯誤をしてないから、脆い。ちょっと違った例題に打ち当たったら、すぐまた混乱しますよ。

子供だって千差万別。
理解の仕方も、感受性も違う。
だから、「この方法がいい」とクラスで統一することなんて出来ないはずなんです。
そうはいっても、先生は一斉に数十人の生徒を教えなければならないから、どれか一つの方法になってしまうのは仕方がないし、それで良いと思う。
しかし、だからといって、他のやり方を否定してはいかんのですよ。
否定されたやり方でしかうまく飲み込めない子は、ひどく傷つくはずです。

合理化考えるより、子供を傷つけない、子供の可能性の芽を摘まないことを考える方が優先だと思うんですがね。
司法の原理と一緒。罪を犯していない者に有罪判決を下すというのは、絶対やってはいかんことです。
大袈裟と思うかもしれないが、バツを食らうというのが、有罪判決を食らうくらい衝撃的な子だっている。勿論、そういうセンシティブな傾向が良いと言ってるわけではないけど、そういう子が(自分では間違っていないと確信があるのに)バツを食らうと、大人への不信、教科への不信に繋がって、「算数なんて大嫌い!」になっちゃうかも知れない。
それは、かけ算や割り算の理解がどうの、という以前に大きな損失です。


実は、私自身は、「耳2つを持ったウサギが3匹」と考えないと簡単な計算すら出来ない子供でした。
「耳3つのウサギが2匹」はまったく違う問題だ、と思ってました。
だから、この手の文章題でバツをもらった事は一度もありません。
式は必ずマルをもらうけど、簡単な足し算やかけ算で間違って答えはバツ、というパターンがほとんど。
これは、文章題の意味を理解し、現実世界の問題として捉えなおさないと、計算という言語に置き換えることができない、という傾向です。
数学という科学に特化した言語を、国語力でカバーしながら解釈して問題を解くタイプです。

小学校では、この傾向はむしろ歓迎されます。
でも、その結果、何が起こるか?
計算力が磨かれないんですよ。
だって、視覚的に脳裏に見えちゃうんだから、数えれば済む。
逆に問題が複雑になって、視覚化できないと、簡単な計算でも間違う。

実は私は、あまりに計算力が弱くて、2年も公文式に通って、それでも計算力が上がらなかった、という経験があります(笑)。
公文式って、とにかく計算問題を山ほどやらせて、習うより慣れろ、の精神なのですが、、、
私は一問一問、どうしてこの計算がこの答えになるか、という理由を理解して答えを出そうとしていたので、めちゃくちゃ計算のスピードが遅かったのです。

3+8という問題があったら、まず頭の中でみかんを3つならべて、10になるためにはあと7つ、ということは8のうち7つを使うから、1の位に残るのは1個、だから答えは11!

といった具合(笑)。
これをいちいちやっていたら、そりゃ計算遅いでしょう…
公文式の狙いは、九九の計算みたいに、その基礎的な部分を「慣れ」で考える前に答えが出るようになるまで訓練することです。
でも、私は、文章題でいつも式の正しさを褒められるので、逆に算数というのはそういう覚えや慣れでやってはいけなくて、常に文章題のように実例に照らし合わせるべきなんだ、と思い込んでいたのです(笑)。
お陰で、2年間、真面目に、一桁どうしの繰り上がりの計算をミカンで数えていたのですよ! 慣れでミカンの前に答えが出て来そうになったら、わざわざ頭の中でミカンを並べ直したりしてね(笑)。
だから、毎日真面目にやっても、計算力はちっとも上がらなかった。

視覚化は、最初に理解させるには有効かもしれません。
しかし、一度理解したら、そういう視覚や国語力の助けを得ずに、直接数式を理解する訓練が必要です。
なんとなれば、算数(数学)は概念を表すための言語だからです。
言語は、世界を理解するための道具です。(まあ、数学者は世界そのものである、と言うかもしれないが(笑))。理解したい世界が複雑になっていくにつれ、言語を別の言語に翻訳してから理解、なんてことでは追いつかなくなってきます。

で、中には、その数学という言語に対する親和性がものすごく強い子供がいるのです。
そういう子供の中には、ウサギだのミカンだのには全く興味はなくて、算数の2x3だろうが3x2だろうが答えは6、というところに美しさを見いだしている子がいるかも知れない。
で、数学的には、それが正しいのです。スカラー同士のかけ算は前後入れ替えても全く差はないのだから、文章題の世界よりよほど抽象化が進んでいて、ある意味美しい世界なのです。
そういう子にとって、3x2にしたらバツを食らった、というのがどれほど面白くない体験であるか、察するにあまりあります。

そういう子の全てが、将来もっと複雑な数式を扱うようになっても数学を美しいと思うか、といったら、多分相当数が途中で挫折するでしょうが(笑)それでも、一部は数学の本当の美しさに目覚めるかもしれない。
かけ算の順序問題でバツをつけるような教育は、そういった将来数学者や理論物理学者になるかも知れないような子供の芽を摘むことになるかも知れません。

第一、子供だって、なにも順序を強制しなくたって、言えばちゃんと理解すると思うんですけどねえ。
「文章題をとくのに、いい方法がある。袋を持った子供がいて、子供一人の袋の中にはみかんが2つ、だからまず最初に2と書き、×印を書いて、そのあとに子供が何人かを書けば、間違いが少ないよ」と言えばいいじゃん。
小学校低学年の数学は国語教育でもある、っていうんなら、絵描かせてもいいし。その部分で子供が3つミカンもってたら、そこで×つけるのはOKってことで(これは国語の問題で、算数の問題じゃないけどね)。
そのかわり、数式で3x2と書いても、×にはしない。
わざわざ先生がそう言ってるのに、敢えてひっくり返して書こう、という子は、捻れ体癖が強くて、とにかく先生の言う事に反抗したいか、本質的に数学の世界では2x3と3x2には違いがない、ということに気づいている子なんだから、「よく気づいたね」と褒めてやって、「高校生になったら、ひっくり返したら答えが変わってしまうかけ算も出て来るよ。楽しみだね」とでも言っておけばいいじゃん。
そうすりゃ、よしんば本当は理解してないんだとしても、高校で行列演算を習うときに理解するし、捻れの子なら反抗を軽く受け流されて大人しくなるよ。
それまで、数学をキライにさせないでおくことの方が、よっぽど大事だ。

と、思うんだけどなあ。